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【与謝蕪村宅跡】

与謝蕪村宅跡
下京区にある与謝蕪村宅跡。

与謝蕪村宅跡


与謝蕪村宅跡(終焉の地)
蕪村は享保元年(一七一六年)摂津國東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)の豪農の家に生まれたと言われている。二十歳の頃一人江戸に下り早野巴人の内弟子となり俳諧の道を歩む。二十七歳早野巴人が没した跡 江戸を離れ関東、奥羽地方へ長い旅に出る。関東、東北地方を遊歴する事約十年蕪村は寛延四年(一七五一年)三十六歳で京都に上り浄土宗総本山知恩院の近くに居を得る。三年足らずで京都を去り丹後宮津へ赴き浄土宗の見性寺に寄寓して本格的に画の勉強を始める。四十二歳で再び京都に戻った蕪村は姓を谷口から与謝と改め画を売って生活をたてる決心をし、やがて妻帯する。その後数箇所転居し、最後の住みかとなる「仏光寺烏丸西入町」に移り住み俳諧に絵画に豊麗多彩な作品を次々と生み出したのである。
蕪村の幻の日記に次ぎの様にしるされている。
「安永三年十一月某日(蕪村五十九歳の時)近くの日吉神社の角を東へ曲がって仏光寺通り途中からミナミへ入って奥まったところに閑静の空き家がありと、とも(妻)が見つけて、またその釘隠町へ身元保証の請状も通り、急に話がきまって三日前移転する。狭いながらに前より一間多く猫のひらいの庭に緑も少々あって、画絹ものびのびと拡げられる心地なり。我が家の前で路地は行き止まり、つきあたりに地蔵尊一体おわします。あしもとに注 昭和三十六年までここに路地があり、地蔵尊は昭和二十二年八月釘隠町町内会の創意で現在地へ移転されるまで路地の南の突き当たりにあった。蕪村宅(終焉の地)はこの路地の一番南(地蔵尊の前)に位置していた。


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